昭和四十八年七月十日 朝の御理解
x御理解第五十六節 
「日にちさえたてば世間が広うなってゆく。ひそかにして信心はせよ」


 眠りたいと思うても、益々目がさえて眠れないようなことがある。
もう後十分もすれば起きらんならん。だから眠っちゃならんと思って横になっておって、ついあっという間に寝てしまっておる。目が覚めた時には、もう三十分も過ぎておるというような体験が皆さんあるでしょう。そういう時に、これはまあ人間の常ですけれども、眠らなければならない時には、すぐ寝につかれ、すぐ眠られ、眠ってはならん時には、チャッとこう目が覚めておるようなおかげを頂きたい。
 それには有難い心、豊かな心、そういう状態の時には、「寝ませて頂きます」とお願いすれば、すぐ寝まれるし。又、寝んではならない、眠ってはならないという時には、有難いという心でおりますと、寝らんですむというか、眠気すらつかずに有難くおかげが受けられる。昨夜眠っとらんから眠っちゃならんと頑張っておくのではなくて、本当におかげを頂いて眠らんで済むようなおかげが頂かれる。
 「日にちさえ経てば世間が広うなって来る」まあ、いろいろと人に噂をされたり、取り沙汰をされたり、まあ世間では、どんなに言っておるやら、悪口を言っておるやら、笑っておるやら、まあ、それこそ、背中にそれを感ずるような事柄、そういう事柄をもって過ごさなければならないようなことも、お互いに、一生の中には、やっぱりあります。
 まあ言うならば、後ろ指を指されるというか、神様は、それは悪い意味ですけれども、指されるような人に。それが信心さして頂いておりますと、例えば、そういう悪いことではなくとも、言わば、信心しよってどうしてあんなことが起こっただろうかというような時などは、そういうものを感じますね、やはり。信心しよって、どうしてあげん貧乏しなされんならんじゃろうかと。私共の場合は、それを言うておった人もあろうと、こう思うです。
 けれども、信心ちゃやっぱり有難いもんだなあと、ああいう貧乏な中に、ああいうふうにして、言うならば朗らかにというか、家は円満にというか。いつも、まあ私の家で言うならば、「大坪さんの家はいつも拍手の音が絶えたことがない」と言われる位に、まあ何ちゃ拝む。何ちゃ拍手を打って誰かが拝んでおる、というような具合で、そういう時はです、ひそかにして信心をしておる時です。
 ですから、密かにして、泌々とした信心が出来ておる時です。言うならばです、眠りたい時に眠り、眠ってはならん時に眠らんで済むおかげを頂いておる時です。辛い、切ない、といったような時に「人の噂も七十五日、夢で紛らすこの辛さ」と言うような、踊りの台詞の文句にありますよね。
 それこそ、夢で紛らしたり、または、酒の好きな人は、酒を飲んで紛らさなければおられないようなことではいけないということです。そういう時があるわけです。自分の…、私の心もわからずに、といったような時があるわけです。それをとやこう取沙汰される時があるわけです。
 だから、そういう辛さというか難儀をです、例えば、酒で紛らしたり、夢で紛らしたんではつまらん話です。だからこれは、信心のない者はそうかも知れません。そういう時に、私共がです、信心は「ひそかにして信心はせよ」と。そういう時にこそ、もう密かな、誰にも目立たないような泌々とした信心が味あわせてもらえれる。
 眠らなければならない時に眠る。もうあのことを考えたら眠られん。そして眠っとらんから、眠っちゃならん時に、ちゃんと眠ってしもうとったといったようなことのね、ないようなおかげ。眠らなければならん時には眠る。今日は今日、明日は明日のまたおかげを頂けば良いと、そういう例えば信心をさしてもらう。そういう意味の時に、私は、「ひそかにして信心はせよ」と教えられたんじゃなかろうか。これは意味がわかりません。どういういうようなことか。
 「日にちさえ経てば世間が拾うなって行く」と、何か本当に世をはかなむというか、悲しいことが起こったとか、なんという時に、もう自分一人が一番不幸者のように、もう世間が狭うなってしまうような時にです、心の中に信心を頂いとれば、そういう時にかえって泌々とした信心が出来る。ひそかな信心が出来る。それが自分のお粗末御無礼のためにということに気が付いたら、心からのお詫びに徹することが出来る。繰り返し繰り返しお詫びさして頂いておると、お詫びが叶うたと感じがある。自分の心の中に通うて来る。
 今日は私、あることを繰り返し繰り返し、お詫びさしてもらいよった。これはもうお詫びだけでは済まんというような感じのことですけれども、やはり、繰り返し繰り返し、お詫びさしてもらいよった。ついに、お許しを頂かんなりのような感じで、御祈念を終わろうとした瞬間、頂いたのがこの「楽」という字をね、こう正式に書かずに「楽」という字を頂くんですよね。中は白、そして点々と楽な字を頂くのです。
 もうお詫びをして、お詫びをして、お詫びをし抜かせて頂いて、も、神様が「うん」とも「すん」とも言うて下さらん感じ。まあ時間が経ちますから、また改めてお詫びをさして頂こうと思うて、立とうとする立ちがけに、こういうのを頂いた。本当のことじゃないけれども、まあお許しを頂いたという、まあそのことは、まあ心にあまりかけるな、楽で行けというような感じでしたね。
 お詫びをさして頂いとりますと、そういう場合に、今度はそれが、まあこのくらいのことはと割り切った考え方で過ごしますところから、それが積もり積もって、難儀の元を造らんとも限らない。そうすると、例えば、何と言いましょうかね。鉄面皮と言いますね、厚かましい人のことを。「ちょいと厚かましか」と、例えば人からも言われ、神様からも思われるようになったのではいけません。本当に気付いたら、「どうも済みませんでした」と詫びる。許されるまでそれを繰り返し詫びる。そこに私は、お道の信心の実意というものを感じます。
 例えば人に噂をされる、取沙汰されるといったような、例えば…何と申しますか、火の気のないところに煙は立たぬというようなことを申しますから。そげなことはないと言ってもです、厳密に自分の心を見よると、やはり人に悪口言われたり、取沙汰される筈だというたようなものを感ずる。そこからしみじみとしたお詫びをさしてもらう。お詫びをすることによって、普通では出来ない泌々とした、密かな信心が出来る。
 その密かな信心の味わいとでも申しましょうか、そういうところを通らなければとても頂けない信心とでも申しましょうか。私共の場合は、もうこれは調子が出過ぎた、自分も浮き浮きしすぎとる。
又浮き浮きせにゃおられないようなおかげを頂いておる。人からもちやほやされる。ああ、素晴らしかと言われる。そういうような時にです、私はこの密かなということを思い出さしてもらって、おかげを頂いたら、調子に乗らんで済む。言わば、おかげが頂かれると思うですね。
 どちらに致しましても、とにかく難儀な、そういう、言うなら、片身の狭い思いをせんならん時です。例えば、ね、そういう時にです。例えば、そういうことを夢で紛らしたり、お酒で紛らしたんでは、もう普通と同じこと。そういう時は、むしろ密かに、泌々とした信心が出来るような、信心を頂きたい。
 そこにはね、「知らんお前どんが、知らんで何を言うか」と言ったような、この位のことは人間じゃけん当たり前のことだと言うのではなくてです、やはりそこのところを、例えば、例えて言えば、神様の悪口を、こっちの悪口ではなく、神様の、信心の悪口、金光様の悪口まで言うたり、笑うたりする人達がある。「お前どんが何も知らんで何を言いよるか」と言うのではなくてです、そういう時にはです、そういうことはまた、「神の比礼ぞ」とも、神様は仰るのですけれども。これも神様の御比礼と言うたら、余りにも私は厚かましい信心だと思うですね。
 自分の至らない故に、例えば金光様の信心を悪う言われるようなことに直面した時には、やはり本気で、しみじみ詫びなければいけないと思うですよ。そこから神様は、また顔を洗うて下さるようなおかげも頂かれるのです。まあ、こういうことはめったにないことだとは思いますけれどもです、世間が狭うなってしまうようなことに直面した時にです、心豊かにと言うか、有難くと言うか、やはり密かにではあっても、神様と通いながら、おかげを頂いて行くうちにです、酒を飲まんでも、夢で紛らさんでもです、日にちが経って行くうちに、悪口を言うておった人、取沙汰をしておった人達もです、「やっぱり神様じゃなあ、やっぱり信心じゃなあ」と言うてくれるようなおかげが、頂かれる訳です。そういうおかげが頂きたいと思うですね。
どうぞ。